取れてしまったボタン
「不思議なんだけど、亡くなってからの方が存在感が大きくなってね。今でもただいまって帰ってきそうな気がするんだよ。」
本当なら今から一ヶ月前にカットにお伺いする予定だったお客様。
夏にお会いした際に病状の進行が加速しているのが気になり、今回の予約確認のお電話は恐る恐るしました。
お電話のタイミングが少し遅くて、奥様は先日お亡くなりになったということでした。
旦那様は3年間してきた介護から解放されましたが、しばらく自分のことは後回しにしてきたため、いざ時間が与えられてもぼんやり過ごしているようでした。
毎日の様に代わる代わる自宅に訪問していた医師やヘルパーやケアマネジャーはパタリと来なくなりました。
「ついに孤独老人になってしまったよ。こうやって会いに来てくれるのは、あなたくらいだ。」
そう言って小さな眼鏡を外しました。
「これは本当は僕の眼鏡ではないんだよ。」
「奥様のですね❓顔よりすごい小さいから違和感ありました😅」
「僕の眼鏡はどこにあるかもうわからないんだよ。いつも『そこにあるわよ』って教えてもらっていたんだけど、もう教えてくれる人がいなくてね。」
私達は数時間、色々な話をしました。
朝ごはんのもずくの話から聞き間違いでロシアのモスクの話へ飛び、舎密開宗の話を聞き、山や旅や本や映画の話。
生前奥様をあんたと呼んでいましたが、今日はやっこさんやっこさんと呼んでいました。
親しみのある呼び方のようですね。
使う言葉や話題にジェネレーションギャップありましたので、こっそりスマホで調べながら理解しました。
「60年も一緒にいて、最後の3年だけが本当に濃厚だったよ。人生って面白いもんだね。」
必死だったのを知っているので、これは愛だなと思いました。
「これからは役割が無くなって本当に困っているよ。だけど、1人になっても食べていかなければいけないし、僕はこれから買い物に行こうと思うんだけど。」
「一緒に行きます😊今日は寒いですよ☔️」
支度を始めると、着て行こうとしたシャツの袖のボタンが取れていました。
「困ったな、どうしよう😦」
「大丈夫、3分でつけてあげますよ‼️」
よく見ると色の違うボタン。
つけてあげることができて、満たされたのは私の方でした。